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松戸市いいとこ

私ども「観葉植物通販のポトス」は、千葉県の松戸市と市川市のちょうど境目あたりで実店舗の園芸店を営んでおります。この江戸川に面した地域は東京都心に近いながらも非常に緑豊かで、古くから園芸とも深い縁がある土地柄です。このような地で松戸、市川のお客様とお付き合いをさせていただくことは私共の喜びです。そこで地元に根を張って生きている”ポトス”ならではの観光案内「松戸のとっておき名所」をいくつかご紹介します。


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戸定が丘

松戸市の地図や航空写真を見ると、江戸川にほど近く「戸定(とじょう)が丘」と呼ばれる広大な緑地があります。「戸定」とは古く中世の城郭に起源を持つ地名です。文字通り城のように周囲を崖で囲まれた台地の先端です。この地には明治17(1884)年に水戸藩最後の藩主徳川昭武(徳川家最後の将軍・徳川慶喜の弟)の別邸戸定邸が営まれ、松戸徳川家の住まいとなりました。江戸時代、この丘は旗本等の屋敷地だったそうで、明治になってから徳川家が購入しています。それにしても、このような小規模な城にもなる地形を屋敷地に選ぶとは、さすが武家の棟梁の血筋だと感心します。あるいは明治になっても、新政府に完全には心を許せなかったのでしょうか(単なる杞憂かもしれませんが)。戸定が丘とは、現在、戸定が丘歴史公園として整備された戸定邸、旧松戸徳川家の敷地と、それに隣接する千葉大学園芸学部を含めた一帯を指します。


戸定が丘歴史公園

およそ2.3ヘクタールの敷地に、戸定邸及び和洋折衷方式の庭園のほか、芝生公園、ひなげしの小径、竹林などが配されています。また園内ではベニシダレザクラやウメ、アジサイなどの花木があり、四季折々に違った風景を楽しむことができます。平成19(2007)年には日本の歴史公園100選の一つに選ばれました。

戸定邸は明治17(1884)年に建てられた徳川昭武の別邸です。豪華な装飾はされていないため、自然にとけ込み静かに佇む建築物ですが、丸太杉や柾目の柱、欄間の意匠など、旧大名の住まいにふさわしい重厚さを備えています。邸内は小規模ではありますが、表座敷から中座敷、奥座敷、離座敷まであり、見どころは数多くあります。和洋折衷の庭園は表座敷から眺めることができます。主屋の南には、起伏のある芝生地とその緑辺を彩るアオギリやコウヤマキ、そして西側傾斜地には豊かな落葉・常緑広葉樹林が広がります。そしてその奥が一番の見所です。江戸川の流れや田園風景、また天気がいい時には富士山を遠望でき、これは関東の富士見百景にも選ばれています。このような豊かな風景に恵まれた戸定邸は平成18(2006)年に国の重要文化財に指定されました。
徳川慶喜は実弟、昭武をこの戸定邸にたびたび訪れ、狩猟や当時ハイカラな趣味であった写真撮影を一緒に楽しんでいます。幕末動乱の主人公であった人たちが、私たちの生活している土地でリラックスして趣味を楽しんでいる古写真を見ると、歴史がとても身近に感じられます。
戸定邸内には幕末から明治の徳川家に関する歴史資料、文化財を展示する松戸市戸定歴史館があり、歴史に関心がある方は見過ごせません。

戸定邸門 江戸川眺望


千葉大学園芸学部

明治42(1909)年創立の千葉県立園芸専門学校を前身とする国立大学唯一の園芸学部です。創立以来、園芸植物の生産や利用に関わる研究や、人と自然が共生する環境の保全や景観の創造など、「食と緑」を扱った幅広い研究を行っています。キャンパス内では数多くの園芸植物を見ることができます。さらにフランス式庭園・イタリア式庭園・イギリス風景式庭園など様々な庭園も楽しむことができます。また、キャンパス内には与謝野晶子が県立高等園芸学校時代に訪れた折、詠んだ60首の句のうち、

「丘の上 雲母の色の 江戸川の 見ゆるあたりの 一むらの罌粟(けし)」
「うすものの 女の友を 待ちえたる 松戸の丘の ひなげしの花」

という花の名前が入った2首の歌碑もあります。

※正式にはわかりませんが実質的に一般人の構内立ち入りは自由です。立木には樹名の札がありますので、木の種類を確かめながら散策を楽しめます。でも、決して建物には立ち入らないようにしましょう。何かと間違われてはいけませんから。もし、中でどんな秘密の研究をしているかを知りたければ、年に一度開かれる園芸学部の学園祭「戸定祭」(毎年十一月三日の文化の日前後)に学内が一般公開されますから、その機会をご利用ください。


実験

この学部では園芸農業と緑地環境に関わる多様な分野の研究が行われています。園芸学科、応用生命化学科、緑地環境学科、食料資源経済学科があり、園芸作物の栽培・育成・利用技術から、育種やバイオテクノロジーに関する先端科学、そのほか環境科学など人々の心身の健康や生活空間まで幅広い分野をカバーしています。
 一方、みなさんNHK趣味の園芸などでご存知の長岡求さんや小笠原誓さんをはじめ、多くの卒業生が、園芸の普及・啓蒙活動で活躍しています。フラワーデザイナーの山口まりさん、野菜の育て方で多くの著書がある北条准教授も卒業生です。



研究用ハウス
花卉園芸学研究室で行われているカリブラコアに関する研究の実験風景です。


戸定祭果樹研
2015年11月戸定祭、果樹研究室の展示。カキ(柿)についての紹介をしています。


二十世紀梨発祥の地

松戸市は“二十世紀梨”誕生の地でもあります。二十世紀梨は、明治21(1888)年に大橋村(現在の二十世紀が丘梨元町)で、梨農家であった松戸覚之助によって発見された品種です。この梨は二十世紀を代表する品種になって欲しいという期待を込めて、明治37(1904)年に「二十世紀梨」と命名され、その後全国に栽培が広がりました。この黄緑色の果皮をもつ青梨は果肉がやわらかく甘みも抜群で、当時のもう一つの品種、果皮が黄褐色で歯触り”ゴリゴリ”の「長十郎梨」を圧倒するものでした。現在では鳥取県が全国一の生産量を誇っており、二十世紀梨誕生の地である二十世紀公園(二十世紀が丘梨元町)には記念碑や、鳥取県から贈られた感謝の碑が立っています。なお二十世紀梨の原木は、太平洋戦争での空襲が原因となりすでに枯死してしまいました。
蛇足ながら、当店の住所「松戸市二十世紀が丘丸山町」も「二十世紀梨」に、ちなんだ地名で昨今の新興住宅団地などにつけられる”安っぽい”地名ではありません。


本土寺で松戸の地名が初めてに文献に記録される

本土寺は松戸市平賀にある日蓮宗の本山です。元々は源氏の名門である平賀家の屋敷跡とされており、建治3(1277)年に千葉氏家臣曽谷教信の協力により領内の地蔵堂を移して法華堂として始まり、後に日蓮の弟子である日朗を導師として招き開堂したのが本土寺の起こりだといわれています。境内には本堂をはじめとして、開山堂、弁天堂、五重塔など多くの建造物があるほか、宝物殿には国の重要指定文化財を含む多くの文化財を所蔵しています。さらに、本土寺はアジサイ(紫陽花)の名所として有名で、「あじさい寺」「北の鎌倉(紫陽花で有名な鎌倉の明月院に対し)」の名で呼ばれることもあります。6月下旬になると境内中に咲き渡るおよそ一万株の紫陽花を見ることができます。また、紫陽花だけでなく、春は枝垂桜・ソメイヨシノ・八重桜、6月上旬は花菖蒲、秋には紅葉も見られ、四季折々に異なった景観を楽しむことができます。
因みに「松戸」という地名はこの本土寺の過去帳に「マツト」として室町時代の嘉吉元年(1441)に現れるのが文献初出とされています。以後「松戸」、「末渡」、「松渡」として現れます。ある意味「松戸」は本土寺によって歴史の舞台に登場したと言えます。


本土寺

矢切の渡し

伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の舞台となったことや、細川たかしの同名のヒット曲でその名を耳にしたことがある方は多いかもしれません。
矢切の渡しは江戸時代の初期に、江戸川の両側に田を持つ農民が、関所を通らずに江戸と往来したことから始まりました。現在東京都内に残る唯一の渡し場です。もちろん観光渡し船ですが、休日には行楽客でにぎわいます。松戸市矢切から東京都葛飾区柴又まで、船頭さんの漕ぐ船が川幅150mほどの江戸川をのんびり往来しています。

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矢切の渡しの東方約1.5kmの台地にある西蓮寺周辺(松戸市下矢切)が小説「野菊の墓」の舞台といわれ、境内に門人土屋文明によって建てられた文学碑があります。小説には明治時代前半の松戸市矢切から市川市国府台にかけての素朴な風土が描かれ、都市化した現代、この地に暮らすものにとっては新鮮な驚きがあります。この小説は現代の若者にはほとんど読まれなくなりましたが、昭和の頃までは高校生必読の青春ロマンとして、長く読み継がれた哀しく切なく、そして美しい物語です。
野菊の墓の関連記事はこちら


参考
http://www.city.matsudo.chiba.jp/index.html (松戸市HP)
http://www.city.matsudo.chiba.jp/tojo/index.html (戸定歴史館HP)
http://www.h.chiba-u.ac.jp/index.html (千葉大学HP)
http://hamadayori.com/hass-col/food/20seikinashi.htm(二十世紀梨、参考)
http://www.hondoji.net/index.html (本土寺HP)